10.10.28.将門塚(千代田区大手町1丁目) (5)
mixiアルバム「将門塚(しょうもんづか) 平将門」コピペ──
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2011年02月02日 02:00
10.10.28.
大手町駅C5出口直近。
伝承では、将門公の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数ヶ所あり、いずれも将門公の首塚とされている。
その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町1丁目2番1号外にある首塚。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門公の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖 (ゆぎょうしょうにん2世)他阿真教(たあ しんきょう)が徳治2(1307)年、将門公に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門公の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。
首塚そのものは関東大震災によって倒壊した。その後周辺跡地に大蔵省が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。その後庁舎が建てられるが、工事関係者や大蔵省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こり、将門公の祟りが省内で噂されることとなる。省内の動揺を抑えるため昭和2(1926)年に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。
この地は東京駅に近く皇居の間近に位置するため、周辺にはオフィスビルが林立しているが、この一角だけはそれほど広い敷地ではないにもかかわらず鬱蒼とした木が茂り、現在でも一種異様な雰囲気を醸し出している。敷地内にはガマガエルの置物が数多く石碑の周囲に置かれている。
数十年にわたり地元のボランティア団体が浄財を元に周辺の清掃、整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱東京UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。
築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来たのも頷けるものがある。そのことを最も象徴的に表すのが、第二次世界大戦後に、GHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとしたとき、不審な事故が相次いだため、結局、造成計画を取り止めたという事件である。
結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日までそのひと気のない様に反し、毎日香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、聖域として守られている。その一方、一部のオカルトファンに心霊スポットとみられる風潮もある。
●“平将門”はコメント欄へ↓
某の知る将門公はマンガレベルなので、wiki丸コピーのち文章修正したものです<(_ _)>
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2011年02月22日 17:46
平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされる事から、903年としている。884年頃とする説もある。
父の平良将は、下総国佐倉が領地と伝えられ、佐倉市将門と地名も残るが、根拠となる史料は無い。また、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされている。だが相馬郡に勢力はなく、実際は同国の豊島・猿島両郡であったと考えられている。
将門は地方より15・6歳のころ平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君とする。将門はその人柄を忠平に認められていたものの、官位は低く、父は鎮守府将軍であり、自らも桓武天皇の五世でありながらも、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなかった。将門は12年程在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが入れられなかった。
(日本外史や神皇正統記はそれを恨みに思って東下して反逆を犯したとするが、現実的でなく、謀反は制度に対しての行動と山陽外史ではされ、現在もそのように考えられている。)
この後将門は東下する。この東下の時、千葉神社の渋谷川の碑文によると、叔父の平国香(平貞盛の父)らが渋谷川で将門を襲撃し、叔父の平良文が将門を援護し両者は逆襲している。
北関東で起こっていた平氏一族の争いは割愛<(_ _)>
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2011年02月22日 19:10
●平将門の乱――
武蔵権守 興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼る。また、不動倉を破ったために追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が庇護を求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2(939)年11月21日、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまったのだ。
将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日に下野国府を占領、続いて迎撃に出兵した上野介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収して国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を自称し、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。即位については舎弟平将平や小姓伊和員経らが反対したが、将門はこれを退けている。
将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられる。翌天慶3(940)年1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことを賞されて従五位下に叙され、1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷に帰ること無く討伐軍長官として出立。
同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。貞盛の行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。
『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を”浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的になったと言える。
まもなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかった。時を移しては不利になると考えて2月1日出陣、将門の副将藤原玄茂の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると、将門に報告もせずに攻撃を開始し、しかも玄茂軍は敗退。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し下総国川口にて将門軍と合戦、将門自ら陣頭に立って奮戦し貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。
将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけるため、幸嶋郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門の「悪政」を嘆いたという。既に民心は将門から離れていた。
将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢も悪く集まらないため攻撃に転ずることもできず、僅か手勢400を率いて幸嶋郡の北山に陣を敷き味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知るところとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えた。
2月14日未申の刻(15時)、連合軍と将門の合戦がはじまる。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みは乱れ、将門も武勇の手だてを失い、いずこからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。
その首は平安京へ運ばれ、晒し首となった。史上最古の獄門がこの将門である。
この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。
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2011年02月22日 22:02
関東一円では、武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという将門公は、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間 逸話や伝説として人々に語り継がれている。これは将門公が、重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として捉えられた為だと思われる。
中世、将門塚周辺で天変地異が頻繁に起こることがあり、これを将門公の祟りと恐れた当時の民衆を静めるため、時宗の遊行僧真教によって神と祀られ、延慶2(1309)年神田明神に合祀されることとなった。
神田明神は戦国時代の太田道灌、北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸幕府は将門公を祭る神田明神を江戸総鎮守とした。また三代家光の時代、将門公の朝敵としての認識は、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により除かれた。
神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは徳川が朝廷に反逆した将門公を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」は、首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあり、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」という。
明治維新後、将門公は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして明治7(1874)年、教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。一方で明治時代後期になると阪谷芳郎や織田完之らにより将門復権運動が行われている。
第二次世界大戦終結後、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして昭和51(1976)年、将門公を主人公としたNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が放映されるに及んで、将門公の祭神復帰への機運が高まり、ついに昭和59(1984)年、将門神は再度、神田明神に合祀されている。
将門公の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いたのである。
千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により海路(陸路は日数を要す)を下向した寛朝僧正が、対将門勢の士気を鼓舞する祈祷を行ったとされる場所に、言い伝えによって建てられた寺院である。このため、将門公とその家来の子孫は、1080年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある佐倉市将門に古くから住む人々も、参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るらしい。
築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると、産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多いそうだ。1976年大河ドラマの「風と雲と虹と」の出演者も、成田山新勝寺の節分豆まきへの参加辞退している(例年、大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の豆まきに参加する)。 同じく、現在の千葉県市川市の大野地区にも、将門公伝説が多くあり、縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地は、城址と言い伝えられている。
また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く将門公の家臣と云う説で、地元の人々は、成田山新勝寺には行かない、参拝をすると将門様の祟りが起こる、さらには裏切った桔梗姫にちなんで桔梗を植えないといった言い伝えを、今でも聞くことができる。
「京都 神田明神」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれる様にして小さな祠がある。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはある。
「太平記」に、さらしものになった将門公の首級(しるし)の話が書かれている。“将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。しかし、ある時、歌人の藤六左近がそれを見て、「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという”。
御首神社に伝わる話では、将門公の首は美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落され、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てたという。
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2012年09月13日 06:45
こんな話を見つけたので掲載しておく。
平将門伝説ーー
五条河原に曝されていた将門の首が、胴体をもとめて自ら空を飛び、やがて力尽き? 落ちたのが現在 三井物産ビルの隣にある首塚ーーという話。
当時の江戸は、将門派の江戸氏(秩父平氏の流れを組み、平良文の末裔。)が治めており、 当時大手町は、海につながる湿地帯で柴崎村という漁村だった。将門ゆかりである安房国の漁民が漁業の中継基地としており、多数定住していたという。
その江戸氏が、朝廷と掛け合い将門の首を貰い受け、ゆかりある柴崎村に祀ったのだという。
Albums: 東京都1千代田区/武州江戸
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Comments (1)
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平将門記事
05-24-2025 22:19 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)
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